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第五話 健康工学から企業の公器性の実現へ

健康工学研究への目覚め

昭和二十七年、西勝造先生から“サイバネティックス”を教えられた一真は、その副題「動物と機械における制御と通信」に心ひかれました。この理論から健康管理を合理的にするため、健康度合いを測定するという技術者魂に点火。サイバネティックスの生体に対する適用の広範な展開を「健康工学」と名付け、生体の健康管理と病気の診断をサイバネーション技術で、一連のシステムエンジニアリングとしてまとめることを目指しました。
診断のための各種測定器の研究開発、さらに生体機構に密着したまったく新しい計測法の開発に挑戦。こうした展開の健康工学の研究は、後年、株式会社ライフサイエンス研究所(現オムロン ヘルスケア)の設立に至ったのです。

健康工学研究への目覚め

サリドマイド障害児の電動義手を開発

一真の健康・福祉に対するバックボーンは、「サイバネティックス」と「企業の公器性」の両輪から成り立っています。

世界的な社会問題となったサリドマイド障害児が学齢期を迎えたころ、近畿圏のライオンズクラブでは「サリドマイド児に手を与える運動」を展開しました。義手の開発依頼を受けた一真は、さっそく徳島大学医学部整形外科との協力体制をとり、研究に着手。一年余りの歳月を経て開発に成功しました。
初めて電動義手をつけた障害児が、義手の指先に握ったチョークで黒板に、字や図形を書いたところを見て一真は、技術者としてまた経営者として、このテーマに携わったことに誇りと満足を覚えました。この感動的な場面は、NHKテレビ「あすをひらく」で“手ができた”というタイトルで放送され、社会的に高い評価を得ました。
このような研究やテーマへの協賛を続けたことは、立石電機の社憲の精神、即ち「企業の公器性」に基づくものであり、二年後、この研究により一真は徳島大学から医学博士号を受けました。

サリドマイド障害児の電動義手を開発

福祉工場・オムロン太陽株式会社の設立

福祉工場・オムロン太陽株式会社の設立01

昭和四十六年、一真は、福祉法人太陽の家の中村裕医学博士(故人)と作家の秋山ちえ子さんから、重度身体障害者の社会復帰のための専門工場建設、運営の援助依頼を受けました。
折から日本経済に大打撃を与えたドル・ショックの直後であり、折り悪く三つの工場を建設中。なかなか難しい問題でした。しかし「よりよい社会をつくりましょう」という社憲の精神と、常に易きにつかず、難きに挑戦するという性(さが)から、「オムロン太陽電機株式会社」の設立を引き受けることにしました。
翌四十七年操業開始。以降、順調に業績を伸ばし、創業以来の黒字健全経営を続けています。

また、福祉工場・オムロン太陽電機が大分県別府市に誕生して十四年経った昭和六十一年には、立石電機の本社がある地元・京都に「京都オムロン太陽電機」(現オムロン 京都太陽)を設立創業。多くの重度身体障害者に働く場を提供しています。

福祉工場・オムロン太陽株式会社の設立

COLUMN

立石一真 語録5 「企業の公器性」の意味

オムロン太陽電機の操業開始の日のことを一真は、次のように記しています。
「私はこの創業式で、重度身障者を前にしてあいさつをせねばならぬ立場にあったので、気が重かった。気の毒な境遇の人たちを、まともに正視できるかどうか心配でもあった。しかし、壇上に上がってあいさつを始めると、そんなことはものの五分もたたぬうちにすっかり忘れてしまった。というのは、「さあやるぞ!」といわんばかりの意欲のみなぎった顔がいっぱいで、工場が実に明るかったからである。フレンチ・ブルーの作業服にオムロンのマークを胸につけた二十八歳の吉松工場長が、車椅子で前に出て、凛々しいあいさつをしてくれるのを聞いて、私は胸が熱くなる思いであった」。これにより、一真の「企業の公器性」に対する想いは確信へと変わっていったのです。